Tuesday, January 5, 2021

PART 2: 日本語で初公開 ー 元WIPO事務局長フランシス・ガリ氏の不祥事、特許協力条約資料の和英翻訳関連汚職・入札談合

日本語版(段落1~12) 

(これの続き:https://kyoto-inside-out.blogspot.com/2020/08/wipo.html)


13. WIPO職員らは「面接」のため5月26日に出頭をするよう求められました。しかし実際にそこで行われたのは面接ではなく,指紋採取と,頬の内側を綿棒で擦る方法によるDNAサンプルの採取でした(不可解なことにGurry氏,Van Hecke氏そしてKeplinger氏からはサンプルは採取されていません)。 

14. 明らかにスイス当局は,職員らのオフィスから採取されたものを含む全てのDNAサンプルを,ジュネーブ大学病院の法医学研究所に提供しました。分析は⑴配布された匿名の文書,⑵3月にオフィスから持ち去られた私物,⑶5月に頬粘膜からのサンプル採取に用いられた綿棒,これらの3組のサンプルのDNAを比較する方法で行われました。その結果,サンプルを提供した全員が容疑者から除外されました。しかしながら私が知るところでは,このことが職員らに通知されたのは3か月以上が経過した,9月下旬の総会でGurry氏の選任が承認された後のことでした。その間,ジュネーブ大学病院のDNA分析レポートは秘密にされたままでした。 

15. 2008年9月22日,Gurry氏が事務局長として最終的に承認されました。その1週間後の9月29日,スイス当局から調査を受けた職員らに嫌疑が晴れたことが知らされました。しかしSaadalah氏とWeil Guthman氏の両氏は自分達のDNAが3月に密かに採取されていたこと知らないまま,5月26日の「面接」と称したWIPO主導の調査のため警察署に出頭を要請され,指紋とDNAサンプルの採取の要求に驚ろかされました。この調査を承認したのはIdris氏でしたが,Gurry氏が事務局長に就任すると調査は中止されました。しかしながら,Graffigna氏は何が起こったのかを突き止めようとし続け,検察庁に対し彼女自身のファイルを開示するように求めました。結局,12月になってようやく開示の許可が下りました。彼女はそこでジュネーブ大学病院のDNA分析レポートを発見し,3月に起こった盗難事件にてついても初めて知ることになりました。 

16. 2009年4月4日,Graffigna氏はスイス司法警察に対し,文書で苦情の申し入れをしました。この文書には2つの問題点が記載されており,そのうちの一点は彼女の私物とDNAが秘密裏に持ち去られたことについて述べています(2009年4月4日付のGraffigna氏の苦情申し立ての文書のコピーを,証拠8として添付します)。 

17. 2010年5月,Graffigna氏は国際労働機関行政裁判所(ILOAT)に対し,この事件を私物とDNAの不正な持ち去りとして提訴しました。その後9月には,氏はWIPOの倫理担当者に対してもこの件についての裁定を正式に求めました(氏による2010年9月26日付“法的意見の要求”を証拠9として添付します)。 

18. 2010年9月頃,WIPOはGraffigna氏が国際労働機関行政裁判所(ILOAT)に提訴した件について反論を行い,これに対して2011年3月14日,Graffigna氏は2008年8月にGurry氏が3月にDNAを持ち去られた3人の人物の解雇を狙っていたことを示す文書を含む追加証拠を提出しました。この文書は明らかにGurry氏を狼狽させ,数週間後,Graffigna氏はGurry氏からシンガポールへの転勤を命じられました。Gurry氏はGraffigna氏は家族の制約があって転勤ができない立場であることを知っており,転勤命令は即ち退職勧告になることを認識しつつ転勤を命じたのです。この紛議は9月の総会の直前まで続き,結局,Graffigna氏がこの問題から手を引くことをWIPOとの間で私的に合意したことで決着しました(2011年9月23日付の,Graffigna氏に対し転勤はないことを確約するGurry氏の文書を証拠10として添付します)。 

19. Gurry氏がGraffigna氏をシンガポールへの転勤命令で脅してから間もなく,Miranda Brown博士が事務局長の戦略アドバイザーという,WIPOに新しく設けられた_事務局長に次ぐポストに着任しました。博士はオーストラリア代表の副常任理事を務めており,Gurry氏とは2008年の事務局長選に絡んで近付きになっていました。上述のDNA盗難事件を知らなかったにもかかわらず,Brown博士が着任して初めての仕事の一つは,Graffigna氏の配転を放棄させるようGurry氏に働きかけたことでした。 

20. それからも博士はGurry氏の行動について賛意を示さないことが続いたため,2012年にはGurry氏は彼女がWIPOに留まれないようにし,彼女は辞職に追い込まれました(2012年11月23日付の,Brown博士の辞表を証拠11として添付します)。しかしながら,彼女はWIPOを去る前にGurry氏の一連の行動について調査を行うよう正式な要望書を提出していきました。この要望書には,2008年初めに起こったDNAの盗難事件についてまでも調査するように記されていました。 

21. WIPOの規律においては,内部調査については内部監査・監督部門(IAOD)によって行われるべきと定められています。当時その部門長のポストにはThierry Rajaobelina氏が就いていました(なお現在も就任中です)。彼はWIPO事務局長及び独立監査監視委員会(IAOC)の双方に対して説明責任を負っています。なおIAOCは四半期毎に召集され,そこではWIPOの会計や運営,監督について審査が行われることになっています。あるときIAOCの席上で,Brown博士が遺したGurry氏に対する申立に関して明らかな意見の対立があったにも関わらず,WIPOの規律に従い ,IAODにおいて“予備的評価”を行うことが決定されました。ここでWIPOの規律において“予備的調査”が“捜査”とは異なることについて明らかにしておくことが非常に重要となります 。評価を行う目的は,何か不正行為があった際に決定を行うことであって,それは必ずしも犯人が誰かを突き止めるものではありません。不正行為が発見された際には,IAODの部門長は“捜査”を推奨することになります。このような場合においてはおそらく,IAOCによって集められた外部の専門職らによって捜査が行われるものと考えられます。 

22.Rajaobelina氏は予備的評価を行うにあたり,IAODの中から調査部長のAnne Coutinと契約職員であったMartin Philibert氏にチームを組ませて役割に当たらせることにしました。私の知る限りでは,彼らは文書の取り調べを進めたほか,2013年の初め頃には証人尋問も行ったようです。 
 **2013年5月, IAOD部門長をGurry氏が脅迫** 

23.2013年5月までには,Rajaobelina氏はこの予備的評価を,5月25日から始まる週に開催される四半期の委員会で IAOCに報告する準備ができていました。しかしながらこの週の委員会は前倒しされました。私はこれには,Gurry氏がWIPOの顧問弁護士と人事部長にRajaobelina氏の任期を打ち切らせるよう要求したことが影響していると睨んでいます。そればかりか彼はRajaobelina氏を他の方法でも脅かそうとしており,その頃にはすでにWIPOを退職し,私の知る限りではGurry氏によってITUのセキュリティ部門での地位を得ていたDonovan氏を巻き込んで,IAOCの委員長に文書を送付し,Rajeobelina氏が私と共謀してDonovan氏の証言を操ろうとしていたと主張しました(Donovan氏の2013年5月12日付の文書のコピーを証拠12として添付します。また2013年5月25日付の同封の文書に対する私の返信のコピーを証拠13として添付します)。 

24.Donovan氏の文書を知ったときには,Rajaobelina氏はPhilibert氏がDonovan氏の個人的な友人で極めて近しい関係にあったことを把握し,彼を調査の任から外しました。しかしその時にはすでに予備的評価の大部分は終了してしまっており,Rajaobelina氏に残されていたのは,IAOCに対して提言を行うことのみでした。脅迫が続く中,5月25日の昼下がりに Rajaobelinaは氏が言うところの異常な会合に呼び出されました。Rajaobelina氏に対し予備的評価についての質問をすべく,会合にはGurry氏,WIPO議長,調整委員会委員長,そしてIAOCの委員3名が出席していました。なおこれは,IAOCが内部監査及び監督業務を行う性質上,業務の機密性を守らねばならないというWIPOの規律に対する違反に該当します。  
**捜査はしないというIAODの決定**  

25.Rajaobelina氏の出席した会合は意図された通りのものとなりました。その週の後半,彼はIAOCに対し,DNAサンプル盗難の件を含め,疑惑について捜査を行わないとの提言をしました。Gurry氏は当時WIPOの副事務局長に過ぎず,それゆえDonovan氏を唆してDNAを盗ませるような影響力は持ち得なかったはずであるとの説明がなされました。この提言は,手続きが毀損され規律通りに運ばなかったということ以上の,少なくとも二つの理由で決定的な欠陥を抱えています: ひとつめは,匿名の文書が誰によってばら撒かれたかについて個人的に関心がある唯一の人物であったGurry氏が,自らが求めた捜査要請をIdris氏によって拒否されたことから,問題を自らの支配下に置き,Donovan氏から直接,或いは当時Donovan氏の属する階級の主任であり,Gurry事務局長が誕生した際には右腕としてそのチームに加わることになっていたWang氏を通じて違法な証拠の差し押さえを行ったという強力な状況証拠です。ふたつめは「予備的評価」に際するWIPOの規律に従った手続きが,今回は不正行為の存否についてのみ向けられ,誰が不正行為を行なったかについては対象とならなかったことです; それゆえ,オフィスへの不法侵入と窃盗は適切な振る舞いであったとみなされましたが,今回の予備的評価にあたり適用される手続きから導かれる唯一の正しい勧告は,この不祥事がどのようにして起こったのかを正確に判断するため, 捜査を行うというものであったはずです。Rajaobelina氏はそのような勧告を出す代わりに,自分の直属の上司であるGurry氏がDonovan氏に直接命令を下す権威を持っていたかどうかという点に問題を組み替えてしまいました。このような形で問題が提起されたことによって,結局Gurry氏にとって満足な結果が保証されることとなりました。 
 **二人の調査官に与えられた報酬** 

26.このようにして,Rajaolina氏はRhilibert氏の契約解除を許し,彼はWIPOを去ることになりました。私の知るところでは,彼はその後Gurry氏と非公式に面会をし,彼のWIPOでの雇用は期限切れとなったことを伝えたところ,その後Gurry氏はRajaobelina氏に対して彼を競争なしに再雇用するよう命じ,その通りとなりました。更にGurry氏は,2013年後半にAnne Coutin氏を人事部の政策法務課の課長へと配転・昇進させました。WIPOのこの部署はIAODによる調査結果の取り扱いについて責任を負っており,このようにしてGurry氏は彼女に彼女自身の担った調査の見直しを迫ろうとしました。なおこの人事は,それぞれの調査機能の独立性を損なうことを避けるための,調査部門全体としての指針に違反するものでした。 **DNA盗難の分析** **DNA盗難問題は些細な問題ではない**

27.世界人権宣言の第3条では,すべて人は,生命,自由及び身体の安全に対する権利を有すると定められています。同第12条ではプライバシーの侵害からの自由が保障され,そして同17条では,何人も恣に自己の財産を奪われることはないことが要求されています。WIPOではかつてこの世界人権宣言を自ら,或いは自らの職員には適用しないことが議論されましたが,国際労働機関行政裁判所(ILOAT)はこの立場を否定しました。確かに,国際連合のような人権保護の監督を担当する機関(例として,基本的な人権の保護についてのILOATの2292,111号並びに1369,116号の判例を参照ください)が,それ自身が世界人権宣言を無視したり,或いはこれに違反したりする自由があると示唆することは致命的であろうと思われます。同様の推論が,市民的及び政治的権利に関する国際規約の第17条によって保障されたプライバシー権についても当てはまります。 

28.2008年の5月に起こった事件は,その所有者の生物学的証拠をも持ち去った私有財産の剥奪以外の何ものでもありませんでした。通知或いは許可なく,そして免責の解除なくそれらの財産を秘密裡に持ち去ることは,文明人であれば誰でも良心に衝撃を受けるものです。このような人権侵害が「些細なもの」であると適正に評価されるような状況はあり得ません。しかしながら事実として,国連において指導的な地位にある何者か(Gurry氏はWIPOの事務局長を務めるだけでなく,プライバシーに関わる事項が最も重要とされる,国連のハイレベルな経営委員会やITUのブロードバンド委員会のメンバーでもあります)が繰り返しそのような印象づけを行なったのです。これは元の違反行為と同じくらいに衝撃的です。